
山崎良祐 / Ryosuke Yamazaki
@nappa
(文学フリマの話42) 文学フリマ東京では2022年から急激に需要の回復が起こり、あっという間にコロナ前の来場者数予測を上回る状況となりました。東京流通センター第一展示場で足りなくなり、第二展示場の片面も使うようになり、スタッフ数が明らかに足りないので全国各地からスタッフを呼び寄せて運営をしてもらうなどして乗り切りました。2023年春の開催回では来場者数1万人を超えましたが、このとき新しい問題の種が起こりはじめていました。 その一つは、交通パニックの懸念です。 東京流通センターへのメインアクセスルートは東京モノレール線です。90%以上の来場者さんが東京モノレール線で来場されます。 コロナ前に1時間に10本も会場最寄り駅に停車していたのですが、それがコロナ禍によって1時間に6本にまで減ってしまいました。 そのため文学フリマ東京からの帰宅時間帯は激しい混雑となり、「空港快速」の臨時停車が急遽実施される事態となりました。 このまま規模が拡大していくと朝の出店者入場・一般入場時間帯に激しい混雑となり浜松町駅が人で溢れてしまい、羽田空港に向かう人に大きな迷惑をかけてしまうことか懸念されました。対策として東京モノレールさんに時間帯別来場者数の見積もりを試算してお出しするなどしてタイムリーな臨時停車の実現や駅構内での誘導対策を実施いただきました。文学フリマ側でもできる限りの対策として分散来場の呼びかけもしましたし、タクシー事業者さまに連絡をとってタクシー乗り場に普段より多く車両を回していただいたり、徒歩・バスでの移動ルート案内を出すなどして、交通パニックを軽減する取り組みも実施しました。 もう一つの懸念は、会場敷地内のオープン前の列収容です。こちらも綿密な計画を立てて問題解決に取り組みました。 多くの方の協力を得て、無事に東京流通センターでの開催を最後まで乗り切れたと思います。お力添えをいただきました皆さまには深く感謝を申し上げます。 ちなみに東京流通センターでは1980年代にコミックマーケットが開催されていました。このときの来場者数は現在のコミックマーケットよりもかなり少ない数字ですが、2023年時点の文学フリマの3倍強にのぼる人数で、とてつもない数字です。いったいどうやって対応したのかを調べてみたところ、なんと当時の東京モノレール線は全列車が各駅停車で、1時間あたり実に12本の列車が流通センター駅に停車をしていました。これは現在の2倍となるキャパシティです。さらに、建物裏の立体駐車場やアネックス(オフィスビル)が建設される前で展示場周辺には十分なスペースがあり、現在よりもゆとりがある来場者数収容が可能だったことになります。が、それでも収容しきれずが、公道にも参加者の列が溢れかえって大変だった、とのこと……このへんの情報は1980年代当時に高校生として東京流通センターでのコミックマーケットに参加されていた方(前々職の先輩、現コミックマーケットスタッフ) であるYさんに教えていただきました。Yさん、前々職在職中は本当にお世話になりました。ありがとうございました。
(文学フリマの話43) コロナ禍のなかにあっても、水面下で集客の改善に向けた活動は細々と続けていました。 公式Webサイトに細かくSEO(検索エンジン最適化)を ちくちく 入れ、サイトへの検索エンジン経由の流入数が増加しました。一時期はGoogleで「文学」と検索した際に、文学フリマ公式サイトが3位にヒットするようになったこともありました(※現在はランクが下がっています)。 出店者さんにより効果的に作品告知とセットでイベントの情報をシェアしてもらえるような改善も 多く 実施しました。Webカタログの機能として、ワンクリックで作品告知のXポストができるボタンがあるのですが、そこで作品告知だけでなく イベント名・開催日時・会場名 をセットでポストできるように工夫しました。このとき、投稿字数制限を考慮し 絵文字を駆使して字数を削減 したりもしました。 開催前から日数をカウントダウンする形で投稿するようにしたのも、このころです。これは「 開催が近づいている 」という意識を持ってもらうことで、当日への準備の機運を高めてもらうことを目的としたものです。 公式ハッシュタグを 「# 文フリ○○(地名)」から 「# 文学フリマ○○(地名)」へ変更したりもしました。これは「文学フリマ」の5文字が表示される頻度を増やし、「文学」のイベントであることを明確にするためです。まだ文学フリマを知らない方にとって、「文フリ」と聞いても何のことかわからず、極端な話では「文アル」と混同されることもありました。そのため、 文学フリマを知らない方に向けて、まずは文学フリマを認識してもらうことを優先 しました。公式サイトでも「文フリ」の表記を可能な限り減らしました。 一応ディスクレイマーとして書いておきますが、これはあくまで効果的な広報を目指した場合に、「文学フリマ」とフル表記したほうが、まだ文学フリマを知らない人にとって伝わりやすいためです。「文フリ」という言葉の使用が間違っているとか、存在を抹消したいというわけではなく、私自身も「文フリ」という言葉に少なからぬ愛着があります。 なお、この「文フリ」から「文学フリマ」への公式ハッシュタグ変更により、SNSの字数制限に引っかかりやすくなる懸念があったため、「第▲▲回文学フリマ▲▲」という 漢数字 での開催回表記をやめ、2022年秋から「文学フリマ東京35」のように アラビア数字 での表記に変更しました。2002年以来の漢数字表記を 廃止 し、アラビア数字にしたのはSNS上での利便性を考慮したためです。
(文学フリマの話44) 検索エンジンに対する最適化やSNSに対する最適化を「本質的でない」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。 ですが、私が思うに、これは文学フリマに検索エンジンyやSNSへの最適化は本質的かつ根本的な改善です。 文学フリマの存在を知ってもらわなければ、どれだけ価値があっても来場者が増えず、出店者の努力も埋もれ、良き作品も発見されないままとなってしまうからです。実際に文学フリマはまだまだ「知る機会が限られているイベント」です。みなさんの身の周り、友人・知人・同僚で文学フリマを知っている方はどれくらいいらっしゃいますか。おそらくほとんどの方が知らないと思います。実際、2024年に行った市場調査の結果結果では首都圏在住の20代〜30代の男女で「文学フリマ」を知っている人の割合は約6%にすぎませんでした。 文学フリマは大手出版社の後ろ盾があるわけではなく、広告予算の捻出できる額もたかだか知れていますから、テレビCMや大規模な広告キャンペーンを打つことはできません。検索エンジンやSNSといった無料で活用できるツールを最大限に駆使することが、ほとんど唯一の手段であり、これしか実績を出した手段はありません。 もはや炊飯器がない時代や洗濯機がない時代に戻らないの同じように、検索エンジンやSNSが無い時代には戻りません。検索エンジンやSNSへの最適化は永遠に続きます。 LLM への最適化も今は重要です。すでに LLM は文学フリマのことをよく理解してくれています。ChatGPT では有料版の高度なモデルを利用して文学フリマのルールについて質問してみるとかなりの精度で正解を回答してくれますので、ぜひ試してみてください。※無料版では間違った回答が多いのでご注意ください
(文学フリマの話45) 2022年9月には「文学フリマのルール」の全面改訂を実施し、2023年1月から適用開始としました。このとき文学フリマにとってどんなルールを整備するのが望ましいかを考えて、改めて考え直しました。 もともとコミックマーケットとその影響下にあるイベント(いわゆる同人誌即売会)では、明文化されたルールやマナーだけではなく、長年にわたって参加者のあいだで醸成された暗黙のルールや暗黙のマナー、つまり不文律が多くあります。文学フリマもかつては同様の状況でしたが、「まだ文学フリマを知らない人」の視点に立って2015年の文学フリマ百都市構想のスタート時に「不文律」をなるべく無くす意図で大幅にルールを改訂しており、2022年にはこれを一層進める目的で改訂を実施しました。 あまりにも多岐にわたる変更点があるので細かくは説明しませんが、主要な点はマナーの明文化(=不文律の排除)、出品作の多様性を促す表記への変更、個人の価値観が尊重されるようにする変更、撮影のルールの緩和、ハラスメント防止ポリシーの追加、そして純粋なテクニカルな問題 (過去発生したトラブルを解消)が主な変更点となっています。 この際に人文科学の知恵を援用して一貫した思想のもとでのルール構築に取り組みました。可能な限り不文律を廃して明文化をする志向としつつも、明文化の範囲はあくまでも今の社会を生きる人の多くの方が納得できるであろうという社会観、とくに西側諸国で広く共有されている価値観 (具体的にはJ.S.ミル的な古典的自由主義から、ジョン・ロールズ的な近代的自由主義まで) の範囲の範囲にとどめ、これを上回る問題については安易な明文化を避けて、未来の参加者同士で構築される不文律に委ねるものとしました。
(文学フリマの話46) 「ルール」の明文化は、主催者側の権限を制限するという意図も含んでいます。 主催者側は会場の施設管理権に基づいて参加者に対してある程度自由に指示を出すことが可能です。 が、その際に主催者側が恣意的なジャッジをもとに指示をしないよう、文学フリマでは作品の内容について細かく禁止事項を規定しています。 恣意的なジャッジは、作品を執筆する側に対して自己検閲をさせてしまう作用があります。「理不尽なルールで販売停止を喰らうかもしれない」と思わしめるからです。 そのようなことを生まないように主催者側のジャッジを客観的・合理的なものするため、かつ事前にルールとして共有された文章に基づいたジャッジが行われるようにするための仕組みが必要なのです。
(文学フリマの話47) 2023年からは公式ハッシュタグ「# 文学フリマで買った本」の運用を開始しました。 これは、もっと多くの方が、作品を読むだけでなく、その感想をポジティブな形で作者に届けられるようにしたいという思いからです。文学フリマでは多くの出店者さんが自作に関するポジティブなフィードバックや感想を求めています。かつての一出店者の私もそうでした。ですが感想の投稿件数は本来あるべき数よりも非常に少ないのが現実です。 いわゆる同人誌即売会では、作品の書影を公開したり感想を公開の場で書いたりすることをタブーとしているジャンルが事実として存在しています。 この流れから文学フリマでも「不用意に書影を上げてはいけないし、感想を書いてはいけない」と考えている方が一定数いらっしゃるものと思われました。また会場内でのゲリラリサーチでは「自分が感想を書くなんておこがましい」と考えている方や、「事前に作者の承諾を得なければならないのではないか」と思っている方が多いことが判明しました。 文学フリマにとって本来不必要なこの壁を取り除くことで、感想の投稿数を増やすことは可能だと考えました。 ただし感想投稿を無配慮に促進することが不必要な衝突を生んでしまうことにつながりかねません。 そのようなことのないようにルールに「出店者または作者自身による明示的な意思の表示がない場合には、出店者および作者は他者に対し自作品をSNSや報道メディア等により紹介することを許諾したものとします。SNSや報道メディア等における紹介を明示的に謝絶する旨を出店者または作者が表示した場合には、作品の購入者はその意思を尊重した行動をとるようにお願いします」「作り手の創作意欲を削ぐような形で書影や感想が発信されることは望ましくありません。明示的に「SNSへのシェアを謝絶する」という意思を作り手から受けた場合には、その意思を尊重してください。」と書きました。 これをもって、どんな方でも作者の事前許諾を得ることなく、作品の書影や感想をSNSにシェアできるようになり、かつ制度上で作者の意思を尊重できるようになりました。 ここまで整えた上で、やっと公式ハッシュタグ「# 文学フリマで買った本」をスタートさせる環境が整い、さらに帰宅後に感想投稿をしてもらえるよう、退場時のルートで目に入るようにスタッフさんにホワイトボードなどを使って「# 文学フリマで買った本」を告知してもらいました。 この施策によって、毎回毎回ものすごく大量の感想を投稿いただけるようになりました。本当にありがたいことです。 このハッシュタグについて「買った」という表現をチョイスしている理由について説明します。 いわゆる同人誌即売会では「販売する」という言葉ではなく「頒布する」という言葉を使うのが不文律とされ、「購入した」という言葉を使うことも憚られており「戦利品」という表現がよく使われています。が、別に文学フリマではそれらのような不文律はありません。 また、同人誌即売会では購入作をテーブルに並べて写真を撮り「戦利品です!」とだけ書いてSNSで公開してそれだけで終わりとすることが多いのですが(※前述の一部ジャンルではそのようなこともタブーとされていますが)、作品の感想が書かれることは非常に少ないです。 文学フリマでもその流れを受けて「文学フリマの戦利品です!」にテーブルに並べた作品の写真を載せただけの投稿がかつては非常に多くありました。 どうも、そうすることがルール、そこでとどめることがマナーだ、と思われているようでした。 コミックマーケットをはじめとする同人誌即売会と文学フリマとでは、目的も理念も事情も異なります。細かく言えば同人誌即売会ひとつひとつに理念も目的も事情も異なります。ただ、もともと文学フリマがコミックマーケットを参考に始められたという背景があり、さらにかつては多くの参加者がコミックマーケットと重複していたという事情もあり、文学フリマは今なおコミックマーケットの強い重力場が作用し続けています。 それでもなお「文学フリマを知らない人」にとってわかりやすくするため、「戦利品」ではない普通の言葉を使えるようにするため、そして作品の感想を投稿する新しい流れを生み出せるようにするため、等々いろいろ考えて言葉を選んだハッシュタグが「# 文学フリマで買った本」なのです。 なお、感想増加を狙うことには隠れた狙いがあります。それはリピート来場者の増加を促すことです。2022年秋の文学フリマ東京の会場内でゲリラリサーチを行い、文学フリマ東京に複数回リピートしている方の特徴を探したら「文学フリマで購入した作品の感想をSNSで記入している方が多い」ということを発見し、「もしかしたら感想を書いてもらうことで次回も文学フリマに来てもらえる確率が高くなるのでは」という仮説を抱きました。(そしてどうやら仮説は当たっているっぽいです。)
(文学フリマの話48) 2024年1月、能登半島地震がありました。 私の故郷は石川県です。実家には直接の被害はありませんでしたが、いろいろありました。が、それについてはあまりうまく言葉にできませんので、語らないでおきます。まだ語るべきときでは無いように思います。 前にも書いた通り、来場者数増を目指して文学フリマ公式のXではさまざまな工夫をしています。2024年1月、いつものように文学フリマ京都に合わせて試行錯誤をする予定でした。が、地震への対応に時間を割くため、Xでの事前告知活動に精神を割くことができず、ごく最低限の、ごく平凡な、型通りのものとなってしまいました。 が、実際に開催後の結果を見てみると、予想を上回る来場者数を記録しました。 不思議でした。Xでの事前広報は説明することも見当たらないくらいに何の特徴もなさすぎて、はっきり言って手抜きと思われても仕方ないくらいの平凡なものでした。主催者側でさまざま工夫を凝らしたり盛り上げようとしたりするような努力をする余裕が一切なかったので実際本当に担当者の私が手抜きをしたわけですが、必ずしも力を入れれば数字が伸びるわけではなく、力を抜いたほうがいいこともあるのかもしれないと思いました。 ちょうどそのころ偶然に、2つのことからヒントを得ました。 ひとつは、2023年の暮れに亡くなられた歌手の八代亜紀さんに関するエピソードです。どこで見たのかまったく記憶がなく正確には覚えていないのですが、全力で歌っていたころは泣かず飛ばずだったのに、あるとき風邪をひいて普段の7割・8割くらいの力で歌ったらお客さんが泣くようになった。全力ではなく7割・8割程度の力で歌うほうが聞く側が気持ちを載せられるから良い、いうことをこのとき発見した……というような話でした。 もうひとつは、ポテトチップスのフレーバーの話です。こちらは一層記憶があいまいで、どこで見たのかまったく覚えていないのですが……新しいフレーバーや季節限定品・地域限定品が数々あるポテトチップスで売上ナンバーワンに君臨するのは常に「うすしお味」という話でした。 文学フリマ京都は事前広報に徹していて、その結果として出店者さんがいろいろな情報を載せて告知しやすくなっていたのだろう、と考えられました。主催者側が無理に盛り上げようとしても必ずしもよい結果が得られるわけではなく、実は本当に求められているのは「うすしお味」のごとき控えめなものであろうとであるべきなのだろう、とこのとき思いました。 これを「うすしお理論」と呼び、2024年の文学フリマの広報施策で一貫して採用していました。 「うすしお理論」は「主催者もひとりの参加者である」とする意識ではなく、「主催者は少し引いた立場に立ち、参加者自身の手に価値の探求を委ねることを優先する」という考えでもあります。2024年冬に東京ビッグサイトへ会場を移した文学フリマ東京でしたが、公式のXで「ビッグサイトだぜ!! やったっ!」みたいなノリの投稿が一切なかったのもこの「うすしお理論」のためです。
(文学フリマの話49) 文学フリマでは先に述べた「マクドナルド理論」(地域性は「場」や「作品」ににじみ出るものであって、主催者が故意に上書きしてはならない)や「うすしお理論」(主催者が力を入れてもよい結果をもたらすとは限らない)のように、主催者がきわめて控えめの態度をとり、機能提供に徹する側に回るという考えをとっています。 この方針に至った理由には私の個人的な体験に由来しているものがあります。 先に書いた通り私は石川県出身の、とある町の出身です。そこの郷土の偉人といえば西田幾多郎でした。哲学の世界で京都学派と呼ばれるグループの祖となる人物だそうですが、町の人はその人物がどんな人かはよく知りません。ただ「偉人」ということだけが言われている人でした。私が通っていた小学校には外壁に西田幾多郎の書がババーンと掲げてあり、学校行事として「西田先生を讃える歌」というものすごくストレートなタイトルの歌を謳う行事があり、私が通った中学校では西田哲学の話をえらい人から聞く行事があったり、という具合に「西田哲学の中身はよくわからなくてもいいけど、世界で知られる偉い人なのだから偉いのだ、ホレ讃えなさい」的な具合で郷土の偉人として讃えることを強要されました。当時の私はそれがあまりにも気に入らなかったので、幾度となく図書館に行っては西田幾多郎に関する本に挑み、午睡に沈む日々をいくつも重ねておりました。西田幾多郎の手による文章はこれまで私が読んだ文章のなかで最も悪質なトラウマレベルの「悪文」であり、小中高生はおろか成人ですら読解するのは至難でした。なぜこれを大人が中身も理解せずに讃えるのかが、まったく不可解でなりませんでした。 (なお西田幾多郎の文章が悪文であることは私ひとりだけが言っているわけではないということを申し添えておきます。信じられないという方は青空文庫に「善の研究」があるので読んでみてください。最初はまだいけるとしても後半になると……つらいです。) 典型的な「地方」というのは、誇りのようなものを掲げようにも、無いのです。「中身は理解できないけど偉いのだから偉い」とする大人たちの姿は哀れにも見えました。自傷行為に近いものすら感じました。でも無理に地域の誇りなど持ち出さなくても、土地への愛着は確かにあるのです。自然があり、産業もあり、人々が暮らしています。記号としての西田幾多郎を称揚するのではなく、その土地における生の体験、それこそ西田幾多郎のいうところの「純粋経験」を捉えることがずっとずっと重要ではないか、と、そう思っていたのです。 (純粋経験、というキーワードは西田哲学の重要キーワードです。使い方がまちがってたら申し訳ございません) 「地方」だからといって無理に「地方性」を演出するということに自傷めいたものを感じるのは私だけでしょうか。なぜその土地そのものをありのままに讃えることができないのでしょうか。この私の個人的な疑問が、文学フリマの「地域性はにじみでるもの」という言葉に現れています。 ※ちなみに私の故郷はプロ野球選手やアイドルを輩出したので、西田幾多郎一人だけを郷土の偉人として褒め称えなければならないとする圧はだいぶ和らいできた模様です。私個人としては、偉人の有無とは無関係の愛郷心がただあるのみです。
(文学フリマの話50) とんでもないボリュームのテキストになってきました。 次の話に入る前に、文学フリマのスタッフとして私が参画することになったきっかけを少し詳しく書いてみようと思います。 私は1984年生まれです。小学校低学年のころバブル崩壊があり、小学校5年生のころにオウム真理教事件と Windows 95 の発売があり、6年生のころにインターネットが爆発的に普及し、中学生のころに橋本内閣の金融ビッグバンと金融危機があり、高校生のころに小泉改革があった世代でした。国内の社会システムが大きく崩れていく不安を常に感じ取りながら生きてきた世代で、かつ情報通信技術がものすごく社会を変えていく様子を目の当たりにしてきた世代でもあります。 そのなかで1996年、12歳のときに初めてWebに触れて、テキストによる個人対個人のコミュニケーションに希望を抱きました。世界中の人が直接対話し合い、理解しあい、戦争のない世界がもたらされるかもれないという希望が当時のWebにはありましたし、そのようなことを当時のパソコン関係の雑誌でライターさんたちがアジテーション過剰気味に書いていました (そのなかの一人が高城剛さんです)。 コミュニケーション技術としてのWebへの希望は、私のなかでは2011年3月まで続き、その月の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故で吹き飛びました。 当時のTwitter、いやWeb全体が、パニックに至っていました。冷静に議論をすることができないでいる。不安を表現することと現実の問題を指摘することとを区分することができないでいる。人々は善意の振る舞いをぶつけあ、その結果とし傷つきあっている。言葉が壊れている。言葉を破壊している。そう思いました。 私が小説を書きはじめたのは、その直前の2008年(23歳)のときです。当時は社会人2年目で、今から思うと、さまざまな自分の限界にぶつかり、うまく言葉にできない切実な思いをなんとか「ものがたる」ことを必要としていたのだろうと思います。小説を書くというのは決して愉快なことばかりではなく、自分の内面と向き合う孤独で冷たい時間でもありましたが、決して書くことを止めることはできませんでした。 時を同じくして「デイリーポータルZ」の記事でミニコミ誌「野宿野郎」を知り、「野宿野郎」から「文学フリマ」を知る……という流れに至ります。そんななかで東日本大震災を迎えたのでした。
(文学フリマの話51) ただ純粋に楽しいだけのことに興味を持てず、何をするにしても意義深い何かを見いださなければ続けられない性格を私は持っています。小説を書くことについても前述の通り純粋な楽しみだけでは続かなかったことでしょう。小説を書くことにはいくらかの孤独や不安がありその先に底知れぬ「何か」を感じるものがありました。 そして文学フリマで自作品を売る、という体験もまた同じでした。ただ楽しいだけの体験ではなく、しんどい思いもやっぱりしましたが、良い意味で身になる経験ができました。 そのときに私の目には、文学フリマという場が、ひとびとが言葉を見つけ、あるいは言葉を生み、言葉を編み、言葉を使って語り得ないものも含めて何かを必死に語ろうとする営みの「場」として確かに機能しているように映りました。日々乱暴で短い言葉の上書き保存を繰り返すWebというメディアとは異なる、古くて新しいものをそこに見いだしたのです。 私にとって小説を書くということが必要なものであったのと同じように、文学フリマという場は壊れることのない言葉のための場として私が求めていたものだったのです。 このようにして文学フリマというイベントに対して底知れぬ価値を感じた私は、そこに改良できる箇所をいくつも見いだし、ひとりのソフトウェアエンジニアとしてできることをやろうという気持ちで文学フリマのスタッフとして身を投じることになったわけです。それが2013年の初夏のことでした。
(文学フリマの話52) 少し話を脱線して ZINE の話をします。 ZINEとはアメリカ発祥の自主制作誌とそのカルチャーのことです。SFのファンジン(ファン達の交流のための自主制作誌)のカルチャーと、カウンターカルチャーや黒人解放運動やフェミニズム運動など草の根的な政治活動の精神と、非営利の理念、そしてDIY (Do it yourself)の精神が混ざり合った文化として近年日本でも注目されています。日本の「同人誌」とは歴史的背景が異なり、コミックマーケットからの流れをくむ「同人誌」とは別系統のものにあると言えます。共通点があるとすると、ファンジンに由来している点くらいでしょう。 ZINEを作るのは1人の個人が主体です。印刷はコピー機やリソグラフ、家庭用のインクジェットプリンタが普通です。業者に発注して製本してもらうものではありません。個人が小ロットで生産して、誰かにあげたり交換したりするものです。売れる売れないは評価の軸にありません。ZINEを販売するためのイベントは存在しますが規模は非常に小さく、San Francisco Zine Fest (サンフランシスコ)で約250出店、LA Zine Fest (ロサンゼルス)で120出店程度となっており、日本のZINEフェスティバルの規模のほうが今やはるかに大きいです。そもそも全米各地に個人が運営するZINEのためのオープンな工房があり、そこでZINEを交換したり、ZINEを制作するワークショップやZINE専門の図書館 (ZINE Libary) が運営されているのも特徴です。とにかく小規模であり、手作りと草の根であることそれ自体が重視されているのがZINEの文化です。イベントが主な流通経路となる日本の「同人誌」と異なり、そもそも大がかりな流通経路自体を必要としないものなのです。 文学フリマのとあるスタッフが、オレゴン州ポートランドのIPRC (Independent Publishing Resource Center)を訪れました。IPRCは会員費を払うことで利用できる工房と図書館を兼ねた施設であり、ワークショップも開催されています。運営は非営利団体によって行われており、地域の文化拠点として機能しています。 ポートランド都市圏の人口規模は、日本でいうと仙台都市圏や広島都市圏くらいの規模に相当します。もし仙台や広島にそんな施設があったら、と想像してみてください(すごくないですか?)。 文学フリマではZINEを出品する出店者さんもいらっしゃいます。なのでZINEが何かずっと知りたくて、2018年のあるときに実際にアメリカの ZINE Library で ZINE を手にとる機会を得ました。そこで見たZINEは、日本人の視点から見ると良い意味で「雑」な作りのものが多く、作者自身の「つくりたい」という気持ちが手作りの作品を通じてあふれ出ているように感じました。多くがWordで書いたもので、タイポグラフィを気にかけているような感じのない飾り気のない本文に、手書きのイラストの表紙と、リソグラフやインクジェットプリンタで印刷した、中とじホチキスで綴じた作品が主流でした。ZINEにおいて重要なのは形式や商品性ではなく、精神性です。とにかく「自分で作ろう」とする意思が、作品の内容だけでなく、そのフォーマットにも現れていました。体裁そのものも作品の一部として機能しているのです。 一方で日本のZINEはアメリカのZINEの形式を受け継ぎつつも、独自の発展を遂げたものと化しているように思います。マンガの文化やアートの流れをとり入れ、洗練された作品が多いのが特徴です。グラフィックデザイナーが手がけたかのようにタイポグラフィが美しくデザイン性の高い作品も多いです。同人誌印刷所を使って印刷された作品も多いようです(もちろん手作りのものもあります)。実際に写真で見比べてみると、日本のZINEとアメリカのZINEの違いがわかります。 Reddit の r/zine (ZINE関連のサブトピック)に投稿されている作品 → https://www.reddit.com/r/zines... 日本の ZINE 専門店の MOUNT ZINE さんで販売されている作品 → https://zine.mount.co.jp/store... 本来は流通の仕組みを必ずしも必須とはしていない文化であるZINEと、本来流通のためのイベントである文学フリマの文化とがなぜ共存できるのか、ということを2018年のZINE Library訪問以来考えるようになりました。そもそも文学フリマが果たしている役割は何で、これからどうあるべきなのかを考えるうえではZINEの存在がありました。その話はいずれまたしようと思います。
(文学フリマの話53) 会場をビッグサイトへ移すということがイベントを運営する側にとってどれだけ大変なことか、想像できる方は少ないかもしれません。 実際のところ、めちゃくちゃ大変でした。東京流通センターと東京ビッグサイトとでは、費用・書類・計画・準備期間・手配備品類・関係業者の数など、イベント開催にかかわるあらゆる準備作業のボリュームが「別次元」になりました。 たいていの会場は「でかい公民館」や「でかい貸し会議室」のイメージで使えます。机・椅子など必要なイベント用品一式が揃っていて、無料または有料(レンタル)で利用できるのが普通です。文学フリマを開催する際には、基本的にはその備え付けの備品を使います。それが一番安上がりですし、外部業者を使うとトラックによる輸送費用が発生して非常に高くついてしまうからです。 が、東京ビッグサイトは様々な用途で利用する施設のため、備え付けの備品は非常に少ないです。イメージとしては東京ビッグサイトは「空調つきの巨大なコンクリート製の箱」です。そのままでは使えません。何をするにしても中身を自分達で全部準備しなければなりません。大量の机や椅子をはじめとしたイベント用品をすべて外部業者からレンタルで手配しなければなりません。ビッグサイト正面に看板ひとつを設置するだけでもお金がかかります。空調もお金がかかります(ホール全体で効く空調なのでスポットで冷やしたり温めたりができません)。照明もお金がかかります。またビッグサイトは0時から貸し出し開始で、24時に返却するルールです。当然ですが準備作業中も使わない時間もレンタル料金がかかります。ゴミの処理料金も含まれておらず別途で必要になります。重量制限がある箇所をトラックが通過しなければならない場合には、わざわざ小さいトラック複数台に分割して運んでもらわなけれはなりませんので、そのトラックの費用と運転手の費用も追加でかかります。車と歩行者との衝突事故防止等のため警備員の手配も必須となります。警備員がいない状態でのトラックの通行は認められません。これらすべて、お金で解決できるだけならまだマシで、人手不足の昨今では業者さんが見つからないということもありえます。 さらに防災のための細かい事前計画をしなければなりません。このへんのルールは東京ビッグサイトの公式資料として公開されていますのでぜひ一読してみてください。避難通路として会場内で一定面積ごとに定められた避難通路を設ける必要があり、図面が出来上がったら事前にチェックしてもらう必要があります。ブースだけではなく看板類も事前に図面の作成とチェックが求められます。入場動線についても過去実績に基づきつつ同日開催の他イベントさんと調整し合意をとりまとめなければなりません。これら一式チェックを受け、何回かの修正指摘を受けて対応しなければなりません。そしてすべての計画策定を終えた後は、計画の通りの運営が必須となります。当日のその場の思いつきでの大幅な変更はできません。ですから計画に多少の不合理なことが見つかったとしても、当日の機転で対応・変更できる範囲には限りがあります。文学フリマだけでなく他のイベントさんも同じです。 さらにロジスティクスの問題も発生します。かつてTRCで開催していたころは備品類の保管や準備作業も個人宅 (=望月邸と、私の自宅) にて実施していましたが、開催前後しばらくの間は通常の生活が困難となるほどモノでいっぱいになっていました。ビッグサイト移行にあたってさすがに限界を感じたため、ついにオフィスと倉庫を借りることとなりました。そして、当然、オフィスと倉庫の固定費がかかってきます。 ここまで説明したような資金面・作業量の面・物量の面での課題を解決するため、スタッフのなかでもリーダークラスの人員は毎週末ずっと文学フリマ東京の準備に張り付いていられなければなりません。これは本当にきついです。 このように運営上の負担が一気に増えるのが東京ビッグサイトという施設なのです。
(文学フリマの話54) 2022年から2024年にかけての文学フリマ東京は、来場者数・出店者数が右肩上がりで増加しており、東京流通センターでは限界が来ることは2023年の早い時点で予想されていました。 ここでいう「限界」というのは提供できるブース数を出店申込が上回る (つまり抽選を行う必要が発生する) ということと、一般来場者の入場待ちの行列の収容が東京流通センター構内のスペースでは不可能になるというということです。私の計算では出店者来場者合わせて15000人〜17000人までが東京流通センター構内のスペースの限界でした。東京ビッグサイトへの移転を決断したのは、より多くの出店・より多くの来場者に対応するためで、そのために発生する多額のコストをまかなうため一般来場者の入場を有料とさせていただいた次第です。「何故拡大しなければならないのか?」「なぜ入場料を無料のまま維持しないのか?」という問いもあるかと思いますが、今後書く予定の運営哲学に関する説明をもってその答えとさせていただければと思います。
(文学フリマの話55) 2022年に一般社団法人文学フリマ事務局を設立し、会計業務や登録商標の権利を一般社団法人文学フリマ事務局へと移管しました。 株式会社ではなく一般社団法人としたのは、「文学のため」の活動が目的であって、経済合理性の追求が目的ではないからです。 株式会社というシステムは、ものすごくざっくり言えば、株主のためのシステムです。 それがどういうものかを理解するために最も私がオススメしたいのは、那須正幹の小説「うわさのズッコケ株式会社」です。ズッコケ三人組シリーズの1冊で、株式会社の基本がギュッと詰まった素晴らしい作品です。 読んでください、だけでは全然説明が進まないのでもうちょっと説明します。 株式会社は、商売の元手となるお金 (出資金) を集めて設立します。このとき出資したお金の金額に比例して出資者に対して「株式」を発行します。この「株式」を持っている人のことを「株主」といいます。 「株主」同士の話し合いと決め事の場を「株主総会」といいます。「株主総会」は株式会社で最も上位の会議体です。株式会社の重要な決め事のいくつかは株主総会で決めるよう法律で定められています。それは、たとえば取締役の選任、取締役の報酬の決定、会社の解散などです。株主総会での議決権は1人1票ではなく、基本的には株式の保有数に合わせて比例配分されます。議決権の50%以上を持っていると多数決で必ず勝てる、ということになります。 取締役は会社の運営を担う存在ですが、あくまでも株主によって選出された存在にすぎません。大株主は好きな取締役を送り込み、その取締役に対して好きな経営方針を採らせることができる存在です。なので取締役は株主よりもはるかに弱い立場に置かれた存在です。 株主総会では会社を解散する決議もできます(過半数ではなく議決権の2/3以上の賛成が必要です)。解散の決議をした場合には資産を売るなどして全部お金に変えて、負債を返して、あまったお金を保有株式数に比例して株主に配って終わりです。 ですから、普段みなさんあまり意識はされていないかと思いますが、基本的には「株主」の意向によって株式会社というのは動いているのです。株主優待ゲットを目当てに株式を持っている人なら定期的に株主総会の案内が届いているかと思います、そこに株主総会の議題やら何やらが書いてありますのでぜひ読んでみてください。ただ普段から意識しなくて済んでいるのは取締役会をはじめとした会社運営の仕組みが上手に機能していて、株主に対して損失を与えないよう・株主に対して利益をもたらすように取締役が経営を行っているからです。この会社運営の仕組みのことをコーポレートガバナンスといいます。 小規模・中規模の会社の場合は株主が1人だけだったり、全員親族だったり、設立に参加した友人数名だったりします。上場企業は800人以上の株主がいます。(東証プライムの場合)。 この発行済株式というやつは売ったり買ったりすることができます。上場している企業の場合には証券会社を経由して、証券取引所で自動的にマッチングしてもらって売ったり買ったりできます(普通の株式取引というのはこれです)。 非上場企業の場合には好きな人相手に好きな金額で売ることができます。とはいえど突然ヤバい第三者に対して株式が売却されたりすると大変なので、非上場企業では「取締役会の承認がないと売却ができない」というルールにしていることがほとんどです。これを譲渡制限といいます。ただし、譲渡制限を無効化するテクがあります。それは発行済株式の50%以上の株主を集めて、その権利を使って株主総会を開催して取締役を全員解任して自分やイエスマンを取締役にすることです。すると「取締役会の承認」を楽勝で得ることができます。が、世の中では取締役会が株式の売却を承認してくれなくて、売るに売れない株式が手元に残って困っている人たちがたくさんいます。それをどうすれば売れるか、という話は牛島真の小説「少数株主」でわかりやすく解説されていますのでぜひ読んでみてください。 経済合理性の追求が目的でない文学フリマにとって「文学フリマ」の登録商標を含む資産を扱う主体が株式会社では難がある、ということはおわかりになりますでしょうか。株式を相続した遺族の方が文学フリマを大事にしたいと思ってくれる人とは限らず、経済合理性に基づく行動を遺族の方がとった場合に必ずしも文学フリマにとって望ましい結果になるわけではない可能性があるからです。株式を持っていた人の遺族が「文学フリマ? もういらんわ、会社解散ー」としてしまうこともできますし、「『文学フリマ』の商標なんか要らんわい」と言い出すこともできるわけですからね。昨年に話題になった朝日出版社の件は、株式を100%持っていた経営者の方が亡くなり、その株式を相続したご遺族の方が第三者に売却した、というのが大枠の流れで、同じような流れを踏むリスクがあり得ます。対策としては株主が亡くなる前に相続予定者と交渉をまとめて公正証書を作成して云々……とかとかいろいろ法律的な話になりますが文学フリマの運営上本質的でない話なので省略します。 このように株式会社ではうまくいかないケースにフィットする制度として2008年に「一般社団法人」の制度ができました。最近設立された非営利団体のかなりの割合が「一般社団法人」を採用しており、文学フリマでもこちらを採用しました。
(文学フリマの話56) ここまで説明した通り、株式会社において「株主」というのは強権を発動することも可能ですので、基本的に経営者は株主の意向を無視して経営することはできません。株主・顧客・従業員(経営者含む)、すべてのステークホルダー全員にとってメリットがある運営ができればよい、という考えもありますが、ルールとして必須ではなく「そういうふうにしたければそうしてもよい」という程度に過ぎません。株式会社の運営にとって必須のイデオロギーではありません。それでもなんとかうまく動いたり、動かなかったりしながら、株式会社というのは運営されているのです。 時計の針を2002年、文学フリマの誕生前に戻します。バブル崩壊と1990年代後半の金融不安を通じて日本式の経営システムが揺らいでいきました。その日本式の経営の手法に「株式の持ち合い」というものがありました。これは取引先に株式を保有してもらい、その取引先の株式を自社で保有する、というふうにして特定の株主に権利を集中させないアプローチのことです。本来の自由主義経済の考え方では、株式会社が株主の意向のもとで利益を最大化するように活動する、会社間の公平な競争によって市場が拡大していく、というものになっているはずです。しかし株式の持ち合いには、市場原理に基づく企業統治を歪める要因と見なされることもありました。 2002年ごろは日本式経営システムではダメなのではないか、という疑念とともに、「会社は株主のもの」という認識があらためて確認され、企業間の競争による健全な企業発展の形とともに株主価値がもてはやされた時代でした。その善し悪しについては議論しませんが、とにかく社会の風潮としてそういう方向にいっていたのは確かです。 そうした風潮のもとで、文芸誌がどうなるのかが、株主 (とその意を受けた経営者) 次第となってしまう、という警鐘を鳴らした人がいました。それが大塚英志さんです。 日本の大手出版社はKADOKAWAを除いてほとんどが非上場企業で、非常に少ない数の株主によって運営されています。▲▲社は△△家一族で株式を持っている、という場合もあります。具体的な社名を述べるのは避けますが、某業界団体の会合で、某出版社の講堂に行った際に、某一族の肖像画がズラッと掲げられていたのを見たことがあります。華麗なる一族、という言葉が頭に浮かびました。ちなみに「華麗なる一族」は、その某出版社とは違う出版社の作品ですが。 そうした華麗なる一族的な株主が、文芸誌というものの価値を認めている場合においては、文芸誌は安泰でしょう。 ところが、そうでなくなる場合もあり得るのです。 一族のなかでの揉め事もあるでしょうし、高額で株式の買い取りを持ちかけられる可能性もあります。具体的な社名を出してしまって恐縮ですが、たとえばあなたが集英社の株を持っている一族の人だったとして、「その株式すべてを1兆5000億円で売ってほしい」と言われたらどうしますか。売るかどうかはあなた次第です。ドラゴンボール・ワンピース・NARUTOなどの様々な権利をセットで売ることになりますから、それくらいの金額になる可能性は十分にあります。(ものすごく適当な計算式で出した数字なので、もっと高いかもしれません。)……一族が何世代、いや何十世代にも渡って暮らしていくには十分なお金になります。あなたなら、株を売らずにいられますか? 売却後、その文芸部門がどうなるかは分かりませんよ。後を継いだ株主がどうするのかは未知数です。どうしますか……? 日本の文芸誌はこのようにして、実は非常に少数の個人としての株主の意思によって保護されているのです。これで本当に文芸誌の仕組みが守られますか? それでも文芸誌が必要だ、守らなければならない、というのならば何故そうなのか説明できるようになるべきではないでしょうか? ……というのが、大塚英志さんが言っていたことです。 2025年の現在の企業経営では「不採算部門でない」というだけの理由では事業部門を存続させず、卓越した利益率ないし成長率を生み出す部門、あるいは将来性を期待できる部門のみを存続させる傾向が見られます。人手不足の環境では、より競争力のある部門に優秀な人を集中させる必要があるためです。直近では日立製作所・資生堂・武田薬品工業の例があります。スタートアップの場合は月10〜30%の成長率、あるいは年100%成長(つまり1年で2倍成長)を求める場合すらあります。私が本業で身を置いているのはそういう世界です。 大塚さんが警鐘を鳴らした2002年、笙野頼子さんの反論によって文芸誌上で論争が発生しました。 なお笙野頼子さんの主張によれば大塚さんは「売れない純文学に価値はない」と言ったこととされていますが、それは正しくなくて、「売れない純文学の不思議」という表現までにとどまっていました。経済合理性と、株式会社のシステムの間で宙ぶらりんになって維持されている状態に警鐘を鳴らしたまでのことです。 そして大塚さんの提唱によって始まったのが「文学フリマ」、というわけです。
(文学フリマの話57) 文学フリマは、大塚さんと笙野さんとの間で2002年ごろ展開された論争、いわゆる「純文学論争」のなかで大塚さんからの提案によって始まりました。 文学フリマを語る上で、この論争は避けて通ることができません。 私は、この「純文学論争」に関連する文献を集められるだけ集めました。笙野さんの全作品、それに対する論評・批評記事、大塚さんのフィクションを除く全作品、さらに論争について言及している文献、それら全部が自宅にあります。購入できる本は購入し、購入できない雑誌記事・新聞記事は国立国会図書館などあちこちで集めました。日本国内で、いや、世界中で、論争に関するほぼすべての文献を手元に持っているのはたぶん私だけだと思います。 その膨大な分量の文献を整理して自分のためにまとめたものを、文学フリマ公式サイトに「純文学論争インデックス」というタイトルで公開しています。 が、それを見たところでさっばりわからない、というのがすべての方の感想だと思います。とにかくこんがらがっていてわけがわからないのです。 その理由はいくつあります。まず雑誌の上で論争が行われたこと、大塚さんの主張が本にまとまっていないこと、笙野さんの側の主張は「徹底抗戦!文士の森」というタイトルの本にまとめられているものの笙野さんの側から主張に偏っていること、論点を交通整理する人が誰もいなかったこと、大塚さんの主張が当時の政治経済のムードを前提としていること、笙野さんにとって論争が2回目であったこと……等々あり、複雑です。 2025年現在の時点では2002年当時の論争を理解し分析するのは困難であろうかと思います。
(文学フリマの話58) 純文学論争の一方の当事者である笙野頼子さんは、小説家です。芥川賞・野間新人文化賞・三島由紀夫賞を受賞し、いくつかの文芸賞の審査員も務めた高名な作家です。 その笙野さんの著作で繰り返し描かれる光景があります。それは「他者からの価値基準とジャッジの押しつけ」です。語り手の容姿・住まい・作品・収入などが、家族・同級生・評論家・編集者などから、それらの価値基準に基づいて一方的に断じられる姿が描かれます。痛々しく見えつつも被害者意識がにじみでるような表現でない独特の文体で表現されたそれをユーモラスと表現する方もいます。「価値基準とジャッジの押しつけ」に対する反応は徐々に攻撃的な口調と化していき、その攻撃対象とするものもメディアや政治体制、仮想的な集団を対象としたものへと変化していきます。(※すごく乱暴にまとめているので読者の方や笙野さんご本人はご不満かと思いますが、ここでは論争の説明のためにいったんこの程度とさせてください。) 大塚さんは1980年代なかばにまんが編集者として活躍していましたが、雑誌の売上が経営の期待を満たせず不遇の時期を過ごしていたころ、さまざまな雑誌に評論家として文章を発表するようになりました。その後まんが原作者としても活躍するに至ります。(※すごく乱暴にまとめているので読者の方や大塚さんご本人はご不満かと思いますが、ここでは論争の説明のためにいったんこの程度とさせてください。) 大塚さんは、1989年の時点でコミックマーケットに言及し、1990年の時点で出版システムの限界に言及し、1991年の時点で『有害コミック』と表現の自由について書いていました。いずれも2025年の現在でも通用するような内容です。 そして1991年に新聞で「売れない文芸誌の不思議」というタイトルの文章を発表しています。内容を要約すると「コミックは売れなければならない宿命にあるが、純文学はそうではない、不思議だ」というようなものです。まんが編集者時代、売上という2文字によって不遇の時期を過ごした大塚さんにとって、商業性を意識せずに済んでいるかのように見える純文学に対して、いろいろな思いがあったのだろうと思います。 この記事が笙野頼子さんの目にとまり、1991年発表の小説「なにもしてない」のなかで言及されています。 その言及の度合いとしては、あくまでそういう記事があった、という程度のもので、大塚さんの名前は出てきませんし、後に現れるような攻撃性もありませんが、2002年の論争のはるか前から笙野さんが大塚さんに対して目をつけていたことがわかります。
(文学フリマの話59) 大塚さんに対する笙野さんへの攻撃は1995年の作品「珍しくもないっ」と「生きているのかでででのでんでん虫よ」で始まります。このときには名前を指しておらず『マンガの原作者』などといった表現にとどまっていました。そして「生きているのかでででのでんでん虫よ」のなかでは、大塚さんと笙野さんが会ったときのエピソードが書かれています。引用します。 「その原作者の人とは15年前にいっぺん会って、私のデビュー作(中略)を『ゴーギャンの絵みたいな世界ですね』とか言って貰っただけでその時の私は大層自意識過剰だったもんですから腹のなかで(あ、読んでくれてないわ)と勝手に思って(もしかしたらそういう感じ方もあるのかもしれないと最近は思うようになった)、それから一切何の御縁もない方ですから」 ……この文章に書かれていることが事実とするならば、笙野さんと大塚さんと少なくとも一度、1990年ごろに会っていたことになります。この事実には驚かされました。 さて、この1995年の一連の作品中で笙野さんが抗議していることは、今の言葉で言うところの「マンスプレイニング」と、一方的な「ジャッジメント」への批判であり、そして文学全体に対する漫然とした批判に対する不快感の表明でした。……と、私は読み取りました。 私の理解の範囲では、笙野さんの主張は単なる不満や不快感の表明にとどまっている程度のものにすぎず、大塚さんが立てた問いに対して何かを回答しているものとは解釈できませんでした。ただそれをもって笙野さんの論に価値がないなどと言うわけではありません。大塚さんの発言に対して積極的に表だって発言をしたのは(探した限りでは)笙野さんただ一人であって、その発言には作家としての気概や勇気を感じました。また「マンスプレイニング」という言葉のなかった時代に笙野さんがその課題意識を表明していたことに驚かされます。先駆的存在であったと敬意を表するほかありません。 そして少しの時をはさみ、1998年4月16日読売新聞夕刊の記事「文芸ノート’98春<上>」での、鵜飼哲夫記者 (※当時)によって書かれた漫然とした純文学全体に対する批判に対して各種媒体で笙野さんが抗議を行います。これが「ドン・キホーテの『論争』」としてまとめられています。そして前述の「珍しくもないっ」「生きているのかでででのでんでん虫よ」も所収されており、解説として「まんがの原作者」が大塚さんであることが明かされています。
(文学フリマの話60) ここで、もういちど時系列を丁寧に見ていきましょう。 大塚さんが「資本の論理」でもって立場を追われたのは1980年代のこと、大塚さんが最初に文芸誌・純文学部門の経済合理性をめぐる議論をしたのは1991年のこと、そしてずっと後の2002年に大塚さんが同じ話をしたことによって本格的な論争が始まります。 1991年はバブル経済の末期の比較的明るい世相の年であり、2002年とはまったく世相が違います。それでも大塚さんは一貫して文芸誌・純文学部門の採算性の話をしていたことになります。2002年の論争では、大塚さんの主張が当時流行の「新自由主義 (ネオリベラリズム)」の風潮に乗じたものとして批判されますが、その批判には当たらないというのが私の評価です。大塚さんの主張は新自由主義という言葉すらなかったころから一貫しているからです。 その直後、1992年に角川書店で騒動が発生しました。 文芸・映画部門を率いる社長と、情報誌・ゲーム・まんが・アニメ部門を率いる副社長との対立が深まり、副社長の側が部下らとともに一斉退職して新会社を設立した……という騒動です。この社長が角川春樹、そして副社長が角川歴彦。二人は兄弟でした。 兄の会社を去った弟の角川歴彦によって設立された会社が、「メディアワークス」で、そこで創刊されたのが「電撃」レーベルの雑誌や「電撃文庫」です。 大塚さんは当時、角川歴彦のもとでフリーランスとして活動しており、騒動に近い立場にいた……というよりは、その中心に近い場所で活動をしていました。メディアワークス設立にあたっては出資を行い、その株主となっています。 大塚さんは実際に株主としてメディアワークスという会社に対して影響力を持ちうる立場に立ったわけです。ここで大塚さんは「株主の視点」を獲得したはずです。株主の視点からすれば経済合理性がないまま不採算部門を放置する経営者というのは「他人のお金で道楽をやっている」存在に見える……というのは多くの投資家が語ることですが、大塚さん自身が実際にその一人となったわけです。 1980年代は資本によってつぶされた側となり、1990年代には資本を持つ側になった大塚さんは、その両方の側を経験したという意味で非常に特異なポジションにいた評論家と言えます。その視点を持っていなかった (と思われる) 笙野さんや文芸評論家が、大塚さんに対して経済システムの議論で太刀打ちするのは非常に難しかったろうと思います。